2021年12月、日本経済新聞で興味深い記事が掲載されました。有力なスタートアップ企業の平均年収が上場企業の平均年収を超えたという調査結果です。

 調査対象となったスタートアップ企業の平均年収は21年度に630万円となり、上場企業の平均年収を上回る可能性が高いというものでした。この平均年収金額には、スタートアップの従業員が多少なりとも受け取っているであろう、ストックオプション(新株予約権)は含まれていないと想像しています。

 大企業で働く意味は人によって様々でしょうが、こと年収という点においてはスタートアップで働く価値が年々高まっているということを指し示しています。

 実は、米国のテクノロジー業界は日本と逆です。往々にして、スタートアップよりも、いわゆるGAFAM(米グーグル、米アップル、米フェイスブック=現メタ、米アマゾン・ドット・コム、米マイクロソフト)を中心とした大企業のほうが高い給料が支払われる傾向が強い。背景にあるのは当然のことながら、人材採用競争の激化です。

 いい会社をつくるためには、いい人材に来てもらわなければなりません。企業のビジョンを伝えたり夢を語ったりすることは当然大切です。しかし、いくら崇高な理念を持っている会社だとしても年収が低ければ有能な人材は集まらないでしょう。企業は、よりよい条件を提示する努力をしなければなりません。

利益と成長のバランスに変化

 日本のスタートアップ企業の社員報酬が上昇している理由はいくつか考えられます。一つには、スタートアップ界隈(かいわい)で、企業が急成長していれば当期利益だけにこだわらない、という傾向が出てきたことがあるでしょう。成長と利益のトレードオフを考えたとき、成長を重視する風潮が日本でも広がってきたことで、人件費に関しても市場の理解がある程度、進んできたのではないでしょうか。その一方で、現在の株価急落局面では成長重視型評価に急激な揺り戻しが起きています。企業評価における成長と利益のバランスが再度変化し始めており、筆者も興味深く行方を観察しています。

 十数年前、筆者がトレジャーデータを創業する以前のことですが、ある大手国内企業のCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)の人に聞いた話をよく覚えています。ある投資委員が、投資対象先の社長の年収が900万円なのは高すぎると指摘したのです。

 確かに年収900万円は決して安くはありません。しかし、リスクを取ってイノベーティブな事業を行う経験豊富な経営者ですから、決して高すぎるという金額ではないはずです。

 当時はどこかそういった空気が漂っていました。実際、十数年前のスタートアップ企業の給料は今よりもずいぶん低かった。冒頭の調査結果のような数字が出てきていることは、筆者にとっても勇気づけられる話です。

 たとえ大手企業であっても、これからの人材採用はより難しくなっていくでしょう。日本の社会は、より大きな格差を受け入れてでも、世界市場で戦う上で必要となる優秀な人材を獲得しなくてはならない。そのための報酬体系をきっちりと整えるべきだと、筆者は考えています。

 日本の自動車業界を見てみましょう。米テスラよりも多くの給料を払っている日本の自動車メーカーはどれだけあるでしょうか。米アップルよりも給料の高い日本の電機メーカーは存在しているでしょうか。

 働く人にとっては、日本企業でも米国企業でも欧州企業でも、どこであっても同じです。

 企業は人がすべてです。米国企業が日本企業よりも圧倒的に強い一つの理由は、採用力の差にあります。単純化すれば、日本企業の採用候補は1億人もいませんが、グーグルやアマゾンは世界中の数十億人から採用できます。英語圏では以前からあったこの採用競争に、日本企業も参加せざるを得ない状況が既に起きています。

 本当に優秀な人材に来てもらうためには、相応の金額を提示する必要があります。経営者には、雇用している期間、社員の生活を保証する責任があります。夢や“かすみ”を食べて働いてもらうわけにはいかないのです。

 トレジャーデータを経営するに当たり、この点についてずっと意識してきました。創業初期から支えてくれてきたメンバーにはしっかり報いたいと考えていましたし、実際、英アームに会社を売却したときの株式の持ち分割合は、創業者と社員が同じくらいでした。リスクを取ってくれたメンバーたちに、一般の企業では考えられない額面の「ボーナス」を渡すことができたのは、創業者として最もうれしかった瞬間でした。

制度や税制面で課題

 日本のスタートアップ経営者の中でもこうした意識は広がっているように感じます。シリコンバレーほど潤沢ではないかもしれませんが、ストックオプションの仕組みは徐々に充実してきています。

 一方、制度面、税制面で追いついていないのも現実なので、スタートアップ支援強化を掲げる岸田文雄政権には大いに期待しています。

 10年前に起業してから、私のビジネス拠点はずっとシリコンバレーです。この地のいいところは、先端テクノロジーの集約だけではないと思っています。もちろん、たくさんの素晴らしい科学者やエンジニアが、シリコンバレーに集まっています。しかしそれだけなら、世界を見れば、少なからずほかにもそうした場所は存在します。日本にも、素晴らしい人材がたくさんいます。

 私が考えるシリコンバレーのユニークな点は、次の2つです。

 一つには、ベンチャーのエコシステムが完全に集約されている点。VC(ベンチャーキャピタル)やそのVCに投資する、巨大な資金を運用するLP(リミテッド・パートナー)が拠点を持っているのは当然のこと、スタートアップ企業を取り巻くステークホルダーが数多く集まっています。例えば、弁護士、会計士、プロフェッショナルファーム、投資銀行などです。創業期の企業支援や、上場と会社売却に関する業務だけに携わってきたような専門家がそろっています。

成長ステージによって必要な能力は変化する

 もう一つ、シリコンバレーの武器は、スタートアップが求める最適な人材がいるということです。営業リーダーも、マーケターも、プロダクトマネージャーも、そして経営者すらも、あらゆるタイプの人材が産業別・ステージ別に集約されているという点です。

 業務や役職だけでなく、会社の成長ステージによっても必要な能力は異なります。

 例えば、「100万ドル規模の売り上げを3000万ドル規模に成長させた経験のある人」と、「1億ドルの会社を3億ドルにした経験のある人」のスキルセットは全く違います。どちらの人材が優れているというわけではなく、ここで重要なのは現在の会社のステージに必要な経験値は何かということです。

 こうした人材が、「ホームラン」を探して数年おきに企業を渡り歩き、企業は優秀人材を辞めさせないためにあの手この手を尽くします。もちろん、必要があればすぐに解雇というのもシリコンバレーが持つもう一つの側面です。

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